弓道の起源とグラスファイバーFRP日本弓の誕生


弓道の起源

弓道は、古来より日本の武道として、武士の時代が終わった後も、連綿と現代まで受け継がれてきました。日本武道館の定義によれば、武道とは、「武士道伝統に由来する日本で体系化された武技の修練による心技一如の運動文化で、心技体を一体として鍛え、人格を磨き、道徳心を高め、礼節を尊重する態度を養う、人間形成の道」、とされています。

つまり武道である弓道において、弓を引く技術が優れているだけでは優れた射手とは言えず、「知仁勇」、武道を行うにあたって必須の条件であるこれらの徳目を中核にしていないと、優れた武術も、野蛮な行為となりかねません。

射手(いて)の意味
弓道古歌に「武士(もののふ)の精兵なると仁義礼(じんぎれい) 知信満たずば 射手にては無し」とあります。その意味は、「(指導者層である)武士は、精兵(優れた武士)と呼べるようになるには、(礼記射義のように中国から伝来した教えにある)優れたリーダーの条件である仁、義、礼を備え、かつ知性があり信望が厚い人物でなければ、射手(優れた弓道・弓術をおさめた者)とは言えない」、ということになります。

弓道の最終目標 - 人格を磨く道具
弓道教本にある、中国の古典である「礼記射義」では、「これもって徳行を観るべし」と説明されている通り、弓道は、「観徳之器(かんとくのき)」としてその人の徳行をはかる器とされています。器とは即ち道具のことであり、弓道の最終目標は、人格を磨く事とも言えます。

森川香山と「弓道」のはじまり
江戸時代、弓道の中興の祖とされる大和流(やまとりゅう)開祖の森川香山(もりかわこうざん)先生は、それまでバラバラに発展をしていた各流派の弓術をまとめ体系化し、現在の弓道の基本となる28mの距離の近的(小的前)を含む、様々な弓術の基準を定め、日本を表す「大和流」として、従来の弓術に神道を取り入れ、初めてその新しい体系化された弓術全般を「弓道(きゅうどう)」と呼称し、現代の弓道の源流を築きました。

現代の弓具、射法・射術のルーツ
弓具・射技の側面からは、私たちが日常何気なしに使っている、白木の竹のヒゴ弓や、硬い角の入った堅帽子のゆがけ、麦粒や竹林の竹矢などの弓具、また弓返りする射法・射術は、弓道の源流、ルーツを探る為の、様々なヒントを含んでいます。このような弓具や、射法・射術は、いつ頃生まれて使い始められ、完成したのでしょうか。

今から約400年前、江戸時代初期(慶長十一年、1606年)に、京都の三十三間堂の縁上で、浅岡平兵衛(竹林坊如成の門人)という武士が、掲額(功績を記念し表彰状等を額に掲げること)を目的とした「通し矢」を始めたと言われています。その三十三間堂の廊下の端から端まで約120mの距離、天井まで5mの弾道制限下、24時間の時間制限の中で、通った矢の数を競うという、競技としての弓術がここに始まりました。弓力にして最低30kg、また50kgはゆうに超えると推測される強弓(稽古には三寸詰、本番では五寸詰)の弓を多数用意し、一昼夜かけ射とおすという、気力体力共に、常人離れした競技「通し矢」が、江戸の武士の間で実際に行われていました。

それから80年後に、紀州藩士和佐大八郎(射法訓の吉見順正の門弟)は、惣(総)矢数13,053射のうち、8,133射を射通すという偉業を成し遂げました。

この通し矢の為に、当時様々な弓具の研究が行われ、より遠くまで低く鋭い弾道で飛ばす竹のヒゴ弓(弓の下を切り詰め、三寸詰、五寸詰になった)、遠くに飛ばす為の竹林の竹矢、強弓で多数の矢数を引いても馬手を傷めない為の、堅帽子のゆがけが生まれています。

特に特筆したいのが、堅帽子のゆがけです。
なぜ堅帽子のゆがけが、現代弓道に大きな影響を与えたのか、を自分なりに解釈するきっかけになった出来事を含め、以下のとおり説明します。

1967年のWorld Archery Championshipに向け日本で事前に行われた、日本代表選手候補者を集めた選抜射会で、私は和弓部門で第1位となり、全日本弓道連盟から正式に、和弓の代表者として派遣され参加しました。今でこそ、70mの遠的でも星の中心に当てるが如く正確に的中させるアーチェリーに、和弓ではアーチェリーのルール下の的中競争では適わない、と一般に認識されるようになりましたが、戦前に行われたアーチェリーと弓道の親睦射会などでは、夫々当代一流の選手・射手が射たにもかかわらず、まだ木製弓具のアーチェリーと竹製の和弓弓具を使ったアーチェリーと弓道の競射は、実際に互角の戦いだったのです。その為、1967年の当時、和弓でもアーチェリーのルールでもアーチェリーに対抗できる、というかすかな期待が全日本弓道連盟にもありました。

とはいえ、1967年時点のアーチェリーの弓具の進化は既に目覚ましく、1967年時点では竹弓・竹矢しか無かった当時の弓道の弓具に対し、アーチェリー用のグラスファイバーFRPで製作された弓、ジュラルミン矢が既に開発され、利用されていました。的中に非常に重要な要素である、正確な矢束がとれるクリッカーも弓についており、これらの弓具の改良により、アーチェリーでは既に、従来よりも大幅に的中精度が上がっていました。

そのような状況下において、アーチェリーのルールで、和弓でもって競わねばならなかった私は、World Archery Championship(世界弓術選手権)に向け、まず事前に古来より伝わる伝統の和弓、その他の弓具や射術の研究を徹底的に行い、それらの弓具を実際に使用して実践的に使い、さらに弓道の弓具と射術をアーチェリーのそれと比較する事により、より深く弓道及びその弓具や射術について、知見を得るに至りました。

アーチェリーは、雨天でも実施され、かつ何よりも的中、それもより的の中心に当てて得点を競う競技である為に、全天候で利用できて、かつ的中に有利な弓具、という観点から、堅帽子のゆがけは、使用できず、柔帽子のゆがけを使用しました。まず堅帽子のゆがけは、水を吸ってしまうと機能しない為そもそも雨天では使用できませんが、的中の観点からも、強弓で矢数をかける為に考案された堅帽子のゆがけは、決して的中に有利な性能を備えておりません。弦枕があり、正しく離れず馬手離れになるとゆがけの溝にひっかかり矢勢も減衰してしまい、弓道の近的の距離ならまだしも強い弓力の弓と太く重い安定性の高い矢を使えば、ミスがカバーされることがあっても、70m、90mの弓道の遠的よりも遠くに飛ばす環境下では、強弓と遠的用の細く薄く小さい羽の矢では、僅かなミスでさえ、堅帽子のゆがけは的中を阻害する要因となってしまいます。

私は、アーチェリーのルールで遠距離の競射で最多の的中・得点を得る為に、World Archery Championshipでは柔帽子のゆがけを使いましたが、近的中心で稽古・競射が行われている現代の弓道においては、もはや通し矢レベルの強弓と矢数をかけることも無いのに、どうして堅帽子のゆがけを使い続けているのか?どうして今でも、弓道は堅帽子のゆがけでないとだめなのか?私は大きく疑問を持つに至りました。

そして、その世界選手権から戻り、堅帽子のゆがけを使った通常の弓道稽古に戻り、その意味を自分なりに感じるに至りました。即ち、馬手を強制的に固定する堅帽子のゆがけにより、柔帽子のゆがけの時代では実現できなかった、押手起点で離れるという、弓道教本で示される「射法訓」で説明されるような理想な離れが実現する弓術の極意につながった、というのが私の解釈です。つまり、元々は馬手を保護するための堅帽子のゆがけは、現代の弓道の射法・射術に非常に影響を与える副次効果、「馬手を固定する」という役割を持っていたのです。この堅帽子のゆがけの副次効果により、世界でも類をみない、「弓返り」、「骨法・十文字」を重視する射法が完成された、と言っても過言ではありません。

射法訓の吉見台衛門(後の順正)は、和佐大八郎の師匠であり、通し矢の大家であります。通し矢以前は戦闘用に考案されていた和弓の弓具や射術・射法は、天下泰平の江戸時代に行われた通し矢を通じた80年の間に、アウトドアである戦場で実施された戦闘弓術から、堂や道場で実施されたインドアへと、大きな変化を遂げたのです。前述した森川香山先生も、この同時代に生きて弓術が体系化されて、現代の弓道への礎を築いています。

その平和な時代の弓道の大きな発展は弓具・射法のみならず、思想の中核に中国古来の漢学の倫理観「道」を据え、「武射」から「文射」へ、弓道としての道を歩み始めた時期でもある、といっても過言ではないと思います。戦争の無い江戸時代の約300年間、「弓道」は徳川武士に護られて、平和と共存してきました。

明治・大正・昭和と時代も大きくうつって、昭和で弓道を標榜する母体は現在の全日本弓道連盟になり、弓道人にとって必携の弓道教本第一巻の巻頭に、「礼記射義」、「射法訓」が掲げられました。礼記射義は、弓道は人の徳行を観るものである、そして射法訓は、徳行を磨く弓道の射法の極意は、この堂射時代の弓具・射法が源流(ルーツ)になっている、という先人から後輩への、重要なメッセージと言えます。

弓道に関わらず、学ぶものは常に源流(ルーツ)を大切にする態度が必要なことは、言うまでもありません。

「礼記-学記篇」の篇末にも、「三王の河を祭るや、皆、河を先にして海を後にす。あるいは源、あるいは委なり。此れを之れ本を務むと謂う」と記されています。

私は弓道に入門した時から今まで弓道を愛し、その弓道を維持発展させることを目的に、高性能で耐久性の高いグラスファイバーFRP・カーボンファイバーFRP日本弓を製作することに、心血を注いで参りました。近年、高齢者を含む弓道人口が国内でも国際的にも増えています。日本文化の薫り高い弓道を行うことにより心身が癒され、長寿が保たれることを切に願い、弊社の製作するグラスファイバーFRP・カーボンファイバーFRP日本弓が、その一助を担えれば幸いと考えております。

「君子は争わず、争わば射か。」ミヤタは、弓道こそ平和を実践する為の最適な「器(道具)」のひとつ、と確認しています。

弓道は世界に誇りえる、後世に伝えるべき日本の伝統文化と考えていますが、物質的資源や、伝統を正確に伝えられる人的資源には限りがあります。弓道の維持発展にとって、何が大切か。私は、何をするべきか。その結論が、ミヤタが先人からの啓蒙により、グラスファイバーFRP日本弓を創始する動機となり、現在まで弓つくりを続ける原動力となっています。

                                                        ミヤタ総業株式会社
                                                    代表取締役社長 宮田 純治

宮田純治 略歴:
日置流印西派浦上道場にて、故・浦上栄範士十段に直弟子として師事。浦上栄先生より、日置流印西派弓術の免許皆伝を授かる。弓道教士八段。グラスファイバーFRP日本弓を世界で初めて製作し、全日本弓道連盟から和弓選手として派遣された1967年World Archery Championshipにて使用した。1972年(昭和47年)ミヤタ総業株式会社を創業し、一般弓道用のグラスファイバーFRP日本弓の製造販売を開始。カーボンファイバーFRP日本弓も製造販売し、現在に至る。



グラスファイバーFRP日本弓の誕生

世界レベルのアーチェリー選手と競う為、より遠くに飛ばし、かつ的中を求める高性能の和弓が必要だった
宮田純治は、21歳の時浦上道場に入門した同年に既に射手としての頭角を現し、国民体育大会に東京都代表として出場。また明治神宮例祭奉祝遠的大会において、昭和36年、昭和37年、昭和38年の三年連続優勝で三連覇を果たし、近的・遠的ともに大きな弓道大会において実績を残した。1967年World Archery Championshipの事前選抜合宿において、和弓部門で第1位、アーチェリー混合部門でも4位という成績をもって、同大会に和弓唯一の代表選手として、参加しました。


<1967年World Archery Championshipにて、自作のグラスファイバーFRP日本弓を引く宮田純治>


上述の通り、あらゆる伝統の和弓を研究した結果、世界トップレベルのアーチェリー選手と遠的の的中競争をする為には、より性能を高めた弓具の必要に迫られました。全天候で使えて、高い反発力を持ち、より鋭い矢飛びと的中が実現するグラスファイバーFRPをアメリカから輸入し、竹弓の内竹と外竹部分を削りそこに張り付け、グラスファイバーFRP日本弓を自作しました。矢も弓道用のジュラルミン矢を自作し、World Archery Championshipにおいて、実際に使用しました。

<1967年World Archery Championship(世界弓術選手権)の日本代表選手団>

左端が宮田純治。全日本弓道連盟から派遣された、唯一の和弓選手だった。日本選手の選抜合宿での宮田純治の成績は、和弓部門第一位、アーチェリー混合部門でも第3位(アーチェリールール下で和弓での成績)をおさめ、選抜された。



<財団法人(当時)全日本弓道連盟「弓道」昭和42年11月号誌上の世界選手権報告書>






(上記報告書の抜粋)「これからの弓具について」・・・(中略)・・・竹をグラスファイバーと比較してみよう。竹は寒暖乾燥の影響を受けやすいが、ファイバーグラスは殆ど影響されない。また反発力は全く優れている。これを例えば竹は皮と肉の部分からなっているが、ファイバーグラスは竹の皮繊維だけを更に強靭にし、固めたようなものである。次に「箆(の)」に代用するアルミ合金であるが、これも竹と比較し、気候その他の自然条件に影響される率は少ない。しかも、使用する弓の強弱、長短により、その長さ、肉厚、径を加減選択が可能である。・・・(中略)・・・以上の観点から、まず矢やアルミ箆、プラスチック羽を利用し、ゆがけは柔帽子に切り替え、弓にファイバーグラスを利用してみた。・・・(中略)・・・私の場合の利用法は、まず弓の内竹の竹を平面に削り、それにファイバーグラスをエポキシ樹脂で接着したものであるが、その程度の加工でさえ飛翔力、確率(的中)の面で大きな変化を見た。


<昭和42年7月17日報知新聞記事>


(上記記事の抜粋)・・・(中略)和弓は独特の弓なりなどのアジはあるが、取り扱いにくく当たりにくい。洋弓はグラスファイバーや鋼材の弓に照準をつけ、射る距離によって弓を引く長さも数学的に割り出されているが、和弓の場合は全て熟練によるカンしかない。宮田さんはこういったハンデを乗り越えるため、和弓の内、外のタケを、グラスファイバーに変えた。


<西洋伝統弓術との交流会>

1967年イギリスに渡り、英国伝統弓術組織、ブリティッシュ・ロング・ボウ・ソサイティのメンバーと、アーチェリーの原型である西洋の伝統弓、「ロング・ボウ」と和弓の交流会を行いました。写真右下が宮田純治。
異なる弓術、弓具の交流を通じて、西洋伝統の弓術・弓具の現状を知り、弓道・弓具の将来について考える貴重な機会となりました。


<木製の西洋の伝統弓、「ロング・ボウ」と矢>

写真は、西洋の伝統弓「ロング・ボウ」とその矢。今から150年以上前に製作されたもの。伝統を伝える素晴らしい弓矢であるが、1967年の時点で既にこの伝統の弓矢を製作できる職人は存在せず、新品を求めることは不可能でした。しかし、西洋の弓術・弓矢は、グラスファイバー・カーボンファイバーFRP弓、ジュラルミン矢、カーボン矢変化しつつも、その中に伝統の性能・名残を残しながら、アーチェリーとして今も西洋弓術は残り、愛され続けています。


高性能のグラスファイバーFRP日本弓は、弓道用として高い可能性を持ち、世に送り出すことを決意
World Archery Chapmpionshipで使用したグラスファイバーFRP日本弓は、鋭い矢飛びと高い耐久性を持っております。江戸時代まで、藩費で購入した弓を仕事としての弓術の為弓を引く、職業人としての弓引きであった武士の時代から、現代の弓道では、基本的に弓具を部費や自費で購入し、学業や職業等の本業の合間に弓道に勤しむような環境に、昭和40年代の弓道の環境も既に当時大きく変わっていました。比較的手ごろで耐久性があり、性能よく、張った直後から弓がひけるグラスファイバーFRP日本弓は、これら現代の弓道の環境に非常に適しており、グラスファイバーFRP日本弓をもって弓具の側面から、現代の弓道を支えることができる可能性に着目し、1973年(昭和47年)に一般弓道用として、グラスファイバーFRP日本弓の製作販売を開始しました。

ミヤタの弓は、素材にグラスファイバーFRP、カーボンファイバーFRPを使用していますが、伝統の和弓の銘弓を徹底的に研究し、その粋を詰め込んでいます。

初心者が基礎を学ぶにも、上級者がその技を体現する場合にも、できるだけ性能のよい弓を提供するべく、ミヤタは日々和弓製作に勤しんでいます。


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